ホメロスの蠅と自然発生説

 フランチェスコ・レディ(Francesco Redi, 1626-1697)は、1668年に、『昆虫の発生に関する実験(Experimenta circa Generationem Insectorum)』の中で、ニクバエの自然発生を否定した。レディは、肉片を入れた容器の口を布で覆い、空気の流れは通すが、ニクバエの出入りを防ぐことで、腐敗はおこるものの、ニクバエ(蛆)の発生はおきないことを示したのであった。これは、パスツールによる微生物の自然発生の否定に至るまでの、自然発生説の反証への第一歩である。  

 この実験の発端を、微生物遺伝学者フランソワ・ジャコブは、その著書『生命の論理』の中で次のように紹介している。
「 … 自然発生に関する本の中で、フランチェスコ・レディは、ホメロスを読んだことが、この種の実験をおこなうきっかけであったと説明している。もし、肉の腐敗が昆虫を生じさせるのに十分であるならば、『イーリアス』第十九書の中で、パトクロスの屍がニクバエの餌食にならぬようにと、なぜアキレウスはあれほどまでに神経質になったのだろうか? なぜ彼は、蛆を生み、死者の体を損ないかねない虫から、パトクロスの屍を守ってくれることをテティスに頼まねばならなかったのだろうか? … 」
(F. Jacob, 1970, The Logic of Life – A History of Heredity –, p. 54)

 問題の箇所(『イーリアス』第十九書 24〜31行)を、岩波文庫の呉 茂一訳でみてみよう。
 アキレウスの甲冑を身に着けて戦い、トロイアの王子へクトールに討たれたパトクロス(メノイテイオスの子)の屍を取り戻したアキレウスが、アカイア方に対する怒りを解いて戦場に赴く前に、母のテティスに向かって、気懸りを訴える場面である。

  「それではこれから甲冑を身に着けるとしましょう。ただ私がとても
  気遣いなのは、もしやその間にメノイテイオスの雄々しい息子に、
  蝿どもが附き、青銅(の槍)に突かれた傷から中に入り込み、
  蛆虫をそこに湧かして、屍を汚しはせぬかということ、
  生命はとうに絶えているので、皮肉がすっかり腐りもしましょう。」
  それに対って今度は、白銀の脚の女神テティスが答えるよう、
  「息子よ、決してそれはあなたがわざわざ 心にかけるまでもないこと。
  彼の人からは、私が十分 蝿どもの無慚な族を追い払うよう
  気を附けましょう。戦死した人々を 啖いつくすという者ですけど。」
  (岩波文庫 呉 茂一訳『イーリアス 下』143〜144頁)

 M. Davis と J. Kathirithamby は、古代ギリシアにおける昆虫のイメージを扱った本(Greek Insects, 1986, Oxford University Press)の中で、蝉や蟋蟀そのものがよく歌われる叙情詩とは対照的に、叙事詩においては、昆虫はもっぱら直喩として現れるのみで、実体として現れることは極めて稀であると述べている。そして、例外的に実体を持った昆虫が現れるとき、それは、生と死の対照と悲惨とを表すものとして用いられるという。それは、上に引いた『イーリアス』第十九書のニクバエ(第二十四書でトロイアの老王プリアモスが、アキレウスに討たれた子ヘクトールの屍の運命を気遣う場面にも同じ内容がみえる)であり、『オデュッセイア』第十七書にある、オデュッセウスの飼い犬であったアルゴスを苛む「犬だに」(岩波文庫の松平千秋訳)である。これについては、ロジェ・グルニエ『ユリシーズの涙』の前書きを、全文引用しよう。

 ユリシーズという名前の犬はたくさんいる。でもユリシーズの飼い犬の名は? それはアルゴスという。忠犬アルゴスは、ぺーネロペイァよりもひどい状態で、ずっと主人を待ち続ける。やがて、つねに慎重なイタケーの王ユリシーズが、アテネーのひそかな力添えもあって、故国イタケーの島に到着した − だれにも分からぬよう乞食に身をやつして。だがアルゴスは、主人だと見破る。
 「(アルゴスは)そのときには、主人のいないままに、召使いたちがユリシーズの広い地所のこやしをほどこすためにもっていくまで、門前に山と積まれたラバや牛の糞のなかに見捨てられて、横たわっていた。シラミだらけになって横たわっていたアルゴスは、ユリシーズが近くにいるのに気がつくと、尾を振り、両の耳を垂れたが、もう自分の主人に近づくだけの力はなかった。  ユリシーズは目をそらせ、エウマイオスにかくれてそっと涙をぬぐい、……」
 ポセイドーンが、神ならではの復讐心に燃えてユリシーズに対して執拗におこなった妨害は功を奏することがなかった。『オデュッセイア』のなかで、ユリシーズはずいぶんと涙を流している。が、彼が帰還した今、その涙をさそったのは、その老いたる犬の姿にほかならなかった。
(宮下志朗訳『ユリシーズの涙』、みすず書房)

 落涙を誘うこの前書きの眼目は、もちろん、シラミなどではありえない。ホメロスの昔から、人は犬をこのようにみてきたのだろう。そして、ロジェ・グルニエは文学と人間を巡るさまざまな犬たちを描いた彼の短編集の巻頭にこの古い挿話をおいたのだった。

 ハエから『イーリアス』のパトクロスとアキレウスとヘクトール、『オデュッセイア』のオデュッセウス(ユリシーズ)とアルゴスへと話が移ってしまった。ロジェ・グルニエはオデュッセウスの飼い犬の名を尋ねていたが、パトクロスを討ち、アキレウスに討たれたヘクトール(英語読みでヘクター)を飼い犬の名にしていたのは、我が国で最も有名な猫には名を付けることをしなかった夏目漱石であった。

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