ギリシア人の厭世観

 以下は、大学院生時代の最も辛かった時期に読んだ本の中の、いたく心に残った一節である。 引用文中のソポクレスからの一節は『コロノスのオイディプス』の中のコロスの詠唱。

 ギリシア宗教は際立った逆説を具現している。神の力は最高の地位に据えられ、神々はさまざまな仕方でこの力を人間に授けると主張されているにもかかわらず、われわれは、ギリシア人が自分の業績を楽しまず、人生は煙の如き影、人間は夢幻という憂欝な結論に達しているのを知って、しばしば驚かされる。ソポクレスは最盛期のアテナイと共に生涯を送ったのであったが、それでも世人の感情をこう表している。

  生まれいでぬことこそよけれ、

  すべてに優るはそれと言う。

  この世に生を享けたからは、

  生まれる前の所へと少しも早く戻るこそ、

  何を措いても次に善きこと。

 ペリクレス時代の偉大な人々の間にあって対等に生きた詩人から、このような言葉が出てくるとは到底予想できない。この言葉は一個人の告白ではなく、劇中の台詞であると言うにしても納得できない。問題は、ギリシア人がこの種のことをしばしば語ったということである。彼らの生に対する執心は、何ごとも為すに値せず、生まれないのが最善という感覚と相い反するものであったことは疑いようがない。それは、あたかも世にも希な努力の後で、努力によって何を得たかと問い、「何もなかった」と答えているかのようである。精力的な行動を執拗に求め、全力を尽くして生き抜くべきであるとする人生観からすれば、このような気分が見えるのも避け難いことだったであろう。時折りは気分もしおれ、自分に課された努力が重荷に感じられることがあったとしても、それはまったく無理からぬことであった。前途に横たわるものが暗闇に他ならないとすれば、努力する理由は実のところほとんどない。何事も無益と嘆くことが慰めになることも十分あったろう。

 ギリシア人はこのことに気づいていたし、そこに真相があることも否定しなかった。彼らは、人生の大半はいかにもはかなく形ばかりのものにすぎず、懸命の努力といえども報いられぬことがあるという、気の滅入る事実を認めていた。けれども、彼らはまた、人生が突如として高揚し、光彩を放ち、充実した素晴らしいものになりうることも信じていた。持てる力を最大限に発揮し、その力を協調的に働かせる時にしか、こういうことは起こり得なかった。このような折りに、人は天性のすべてを発揮するのであり、神々が許すならば、揚々たる幸福を享受するのである。そしてこの幸福こそ、神々が天空の完璧にあって享受する幸福に似るものなのである。人間はこの幸福を意のままにすることはできないし、できることは、訳もわからぬまま、幸福を授かるようにと望むことだけである。幸福は束の間にすぎないかもしれない。どう見ても幸福はめったに訪れるものではない。しかし、ひとたび幸福が訪れるなら、その価値は測り知れないものである。このことをピンダロスは穏やかな、わかりやすい言葉で語っている。

  人の生命は束の間のもの。

  人とは何か、また何ではないか。

  夢の中の影、これが人というもの。

  だが、神の光の及ぶ時

  輝きは地に溢れ、人の生命は蜜の如し。

 神々の特権を奪ってはならないし、また奪うこともできないということ、苦しい努力もしばしば報われず、むなしさだけが残るということを、ギリシア人は弁えていた。とはいえ、神の至福に導き近づける何かが、時には与えられるということも知っていたのである。この信念が彼らの生活の中心に存していたのであり、また、人間は代々、木の葉の如く凋落し、平等の死がすべての人の最後に待ち受けている、という頼りなさの中で、この信念が人々を支えていたのであった。

C. M. Bowra 卿 『ギリシア人の経験』(水野 一・土屋賢二訳, みすず書房)